「ヒデ」

声がする。懐かしい声だ。
慕わしい声だ。
「ヒデ!」
容赦ない力で揺り動かされて中嶋は目を閉じていた自分に気づく。
どうやら床に座り込んでいたらしい。
無造作に投げ出されたつま先が目に入る。
自分らしくもない無様さに眉をひそめた中嶋は、同時に誰かに寄りかかっていることにも気づく。
長めの前髪が視界の邪魔をする。
青いネクタイで相手が3年生であることは知れる。
薄いシャツ越しに体温を感じる。
暖かい。
思わず額を押しつけて。ほほを寄せて。
しっかりとした筋肉の厚みにほっと息を漏らす。
胸いっぱいに息を吸い込み、再び中嶋が目を閉じた時。

「手がかかるヤツだなあ」

呆れたような声がした。
「それはオレの台詞だろう」
中嶋は反射的に言葉を返して目を上げた。


「哲…」
丹羽が、いた。

白々とした蛍光灯を背にしていたが、逆光になっていても間違えようもない。
中嶋は丹羽の腕の中に抱き込まれる格好で座り込んでいた。
背にまわされた腕も。
ほほを寄せている胸も。
丹羽のものだった。
「どうした。怖い夢でも見たか」
丹羽はまるで子供に言うように笑いかける。大きな手で、容赦ない力で中嶋の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
その手のひらの熱さが変わらなくて。
中嶋のくちびるはわずかに震えながら名前を呼んだ。
「丹羽…」
「だから、どうした?ヒデ、寝ぼけたか?」
面白そうにのぞき込む瞳。ニッと笑った口元も。
からかうような口調も。
「誰がだ」
ムッと不愉快そうに言いかえし、中嶋は頭を撫でる手を叩き落とす。
そのやりとりすら全く変わりなく。
戸惑うように中嶋は手を見つめる。

左手に嵌っていたはずの指輪がなくなっていた。

「じっと手を見て、どうした」
のんびりした声に、弾かれたように中嶋は丹羽に抱きついていた。
そのまま引き寄せて。
「おい、ヒデ。苦しいぞ」
焦ったような声を丹羽の首にあてた耳で聞く。
腕に力を込めて体の厚みを確かめていた中嶋は、すぐに同じ力で抱き返されて息をのんだ。
「苦しいって、ヒデ。
情熱的だな。珍しく」
苦しいといいながら丹羽の力もゆるもうとはしない。
あわせた胸があたたかい。
頬にすり寄せられた丹羽の鼻先が冷たい。
中嶋の口元がゆるむ。わざと素っ気ない口調で言葉を返した。
「悪いか」
本当は1ミリたりとも離れたくはない。口に出さずに中嶋は思う。
言葉にした途端、なにかが変わりそうで。
離れた途端、何かがおこりそうで。
胸を恐れが包んでいる。
「いや。たまにはいいさ。たまにでなくともいいがな」
「何をバカなことを」
丹羽らしい軽口に鼻をならして。そっと中嶋は体の力を抜いた。
「哲也」
「ん?」
「いや。なんでもない」
「おかしなヤツだな」
「たまには、いいだろう」
笑みを含んだ声に目を閉じて、体すべてで丹羽を感じた。


どれくらい時間がたっただろう。
あごをあげた丹羽がこめかみに口づけながら言う。
「行くぞ。ヒデ
こんな所にいてもなにもできねえし」
「丹羽…」
「どうしたヒデ。まだここにいたいのか?
それとも…
…怖いのか」
「怖くなんか…」
ない、と言いかけ中嶋は口をつぐむ。
「ああ。怖い…オレは出たくない。離れたくない。」

出たら。離れたら。
お前がいなくなるかもしれない。

言葉が力を持ちそうで中嶋はそれ以上続けることは出来なかった。

「消えない」

低く丹羽が言う。
「消えないさ。呼んだのはお前だろう?」
「哲也」
「いらなくなっても消えてやれないぞ。悪いがな」
中嶋は惚けたように丹羽の顔を見つめていた。
きつく抱き合っていた腕がほどけていたが、離れたらいなくなってしまうという不安が杞憂だったことにも中嶋は気づかなかった。

お前が呼んだ。
そう丹羽は言った。

「哲…」
「なんだ。嫌なのか?」
「嫌なわけ、あるか…。テツ…!」
精一杯の強がりはそこまでだった。端正な顔をくしゃりと顔をゆがませ、中嶋は丹羽にしがみつくとキスをした。
鼻の奥がツンと痛み、喉の奥が引きつれる。
ぶつけるようにくちびるを重ね、むさぼる。
中嶋は上手に呼吸さえ出来なかった。
背中にまわされた丹羽の腕の感触を。
腕をまわした丹羽の首の太さを感じていた。









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