「求めよ。与えられるであろう。
捜せ。見いだすであろう。
たたけ。扉は開くだろう」

窓の方からしわがれた力のない声がする。
うなだれていた顔を窓に向けて、中嶋はゆっくり目を開ける。
浅く息を吸って、止めて。ゆらりと立ち上がる。
よろめきながら窓に近寄る。
窓の向こうに生気のない顔がある。
求めても与えられなかった男の顔だ。中嶋は思う。
人の羨むすべてを手に入れたのに、屑しか持たない男だ。
求めて、求めて、叶えられずに求めることを忘れた男だ。
がらんどうでひからびた、枯れた木のようなものだ。

窓越しの年老いた顔に何の感慨も感じない
そこに浮かんでいる寂しげな影に気づきはしたが、思うことはない。
同情も好意も。
哀れみも嫌悪も。
自分との関係すら中嶋には意味がない。
どんな他人より遠い存在。
それだけのことだ。

部下らしい男が呼びに来て老人は部屋を出ていく。
一人でいた時とうってかわった、生気に満ちた傲慢な表情を浮かべて。
その様子を横目で見て中嶋は後ろを向く。
冷たい硝子によりかかり、天井を見上げ深く深く息をつく。
耳に呪文のような言葉が残っている。
求めよ。と言っていた。
求めれば与えられると。
探せば見つけられる。
叩けば扉は開かれると。
ありえない話だ。本の中の一節に過ぎない台詞だ。
望めばすべてが叶うなんてことありはしないだろう。
そっけない蛍光灯の光を見つめ、思う。
けれども。
もしかしたら。
求めたら。与えられるのだろうか。
この自分が想ったら。
窓の向こうの男は求めなかった。求めても無駄なことだと諦めて年老いた。
ならば、自分が全身で求めたら。
与えられるのだろうか。

毛髪の一本一本、肌の感触、熱さ。
声。
指のかたさや、その指紋の一筋まで想ったら。
細胞の一つまで求めたら。思い出せたら。

戻って、来るのだろうか。


誰を、なのか中嶋にはわからない。
自分をここにおいて迎えに来ない誰か。
そんな者などいないとも思う。
存在しない存在を思い出す。
パラドクスだ。矛盾だ。
ばかげている。そう思いながら。
出来るわけない。そう怯えながら。
中嶋は一心不乱に思う。
いない筈の誰かを求める。
知らず知らずに口にあてていた、左手に光る黄色の石をくちびるで確かめるように触りながら。


夕暮れに黒く佇むシルエット。
自分を呼ぶ声。
背にまわされた腕の重み。
匂い。
ふれあった肌の温かさ。熱さ。
舌で触れて。舐めあげた感触。
汗の味。
周りを取り巻く空気の色。

爪の形。
後ろ姿。
シャツの皺まで


堰を切ったように断片が重なり合う。
声が聞こえる。
指に感覚がよみがえる。
至近距離でのぞき込んで。目の形も光彩の色も。
くちびるで触れた頬。
鼻の先の冷たさ。
髪の硬さも。舌の柔らかさも。
胸の厚み。
手の平で感じた肩胛骨の動き。

あいたい。

絡めた腿の硬さ。
ふざけて挟みあった足の指。
膝頭に残った傷跡。
引き寄せる腕の力。
しめった肌。

思い出すたびにどんどん自分が空っぽになっていく気がする。
吐き出して、吐き出して、自分が全部空になったら帰ってくるだろうか。
だったらそれでいい。
もう一度。
笑った顔で。いや笑わなくてもいい。
もう一度会えるなら。
会うことが出来るなら。
石に息を吹き込むように、中嶋のくちびるが動く。
ゆっくりと。くちびるに残っている感触をよみがえらせるように。
もう一度。

あいたい。

「…丹羽」
石の輝きが突然増して。中嶋は指の上に太陽が生まれたような光に包まれる。
光は細かい粒子になって部屋中に満ちる。
黄金の光だ。
渦を巻く光に包まれて中嶋は目を閉じる。
お前の光だ。丹羽。
からっぽの中嶋はからっぽの胸の中で何度も丹羽の名前を繰り返す。
ようやく取り戻した名前をもう手放さないように。
いままでの分を取り返すかのように。








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